一人舞台

生きづらさに悩む、元ひきこもりのブログ、日記

生き辛さに悩む元(暫定)ひきこもりの「日記」

拗れる関係

先日ニート、引きこもりの問題をどう感じるのかと親に聞いてみた。

すると「とにかく自立してほしい。親が死んだらどうするのか?特にあんたのような『軽度の』発達障害だと理解されにくく、支援もうけられないであろう。こっちだっていろいろ不安だ」と。

言われなくたってわかっている。わかっているし外に居場所もないから皆拗れていくのだろう。

これがその人個人の問題、つまる所「気の持ちよう」だけの話であれば解決も早いんだと思う。

自分が考えているより「働く」ってずっと簡単な事で、やってみたらなんだこれだけのことかと。そう感じられるのなら・・・。

だけど実際どうかって言うと、一度社会に出れば個人の意見なんて殆ど通らない世界だった。

残業や休日出勤や飲み会は出ろと言われればでなきゃいけないし、反りの合わない人だっているでしょう。仕事が合わなかったとしても続けなければいけない。

最近思うのは感じ方って結構人によって違うんだろうかということだ。

出来る出来ないは勿論、同じ事でもストレスを50感じる人もいれば、90感じる人もいるという。

理屈ではわかるけど実感としてはイマイチわからない。

身近な所だと自分は外食が苦手で、昼食夕食時の騒がしさが店を抜け出したくなるくらい苦痛である。

ところが親や兄弟、友達に聞いてみても誰一人「苦痛」とまではいっていないようだ。

 

ともかく道はいろんな所に開けてはいるけれど、どうなるかは誰にもわからない。

何が出来るのか、どうすれば上手く自立できるのかわからないし、誰も教えてはくれないけれど、選択しなきゃいけないし、失敗すれば「甘えだ、自己責任」空白期間が開けば復帰も一層難しくなる。つれぇわ・・・。

来週の月曜がある種の分岐点にはなると思うんだけど、どうなることやら。

 

何にせよ、ニートや引きこもりの人に変わってほしかったら、それ相応の関わり方っていうのがあると思う。

まあ、「傷ついているんだから気を遣えよ」というわけじゃあないんだけど、例えば宿題や勉強をやらない子供に「やれ!」と迫ったってやらないでしょう?

よしんばやったって、嫌々やっているわけだから成果もでないでしょう。

昔の亭主関白みたく「誰のおかげで生きていけているんだ!いいから働け!」と高圧的な態度で命令したって心を開いてはくれないだろうし、動くに動けない状況を更に圧迫し、拗れに拗れて刺すか刺されるかの関係に発展するだけのような気がする。

 

ああ!働いて、働きだして良かったと思える社会になってくれればいいよね。                                    

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