そういって理解してくれる人が、この車社会の中で何人いるのか本当に疑問である。
「必要ないから乗らない」という人であれば幾らでもいるだろうし、前職の先輩も免許すら持っていないとのことだったが、フォークリフトには乗っていたので多分こちらに該当するだろう。
しかし一方で「運転するのが嫌だから」というのは不思議なくらい聞いたことがない。そんな人は見たことがない。
世の中的に、状況的に周りが有無を言わさないのかもしれない。
自分は圧倒的に後者である。車校を卒業した後「とりあえずこれで乗らずに済む」と安心したものである。
トラックと衝突事故を起こしたのか、見るも無残にグチャグチャになってしまった乗用車を見て「運転したらああなるかもしれない・・・させてしまうかもしれない・・・」といたたまれなくなってしまったのは、つい昨日の事である。
そして祖母が心臓の病を患い、何度か検査に付き添い、カテーテル手術を決めたのも先日の事である。
通院するさい、仕事をそういつも休めるわけないから運転して送迎をしろ!と母に言われております。金を出すから、自動車学校にもう一度行って、練習して来いと。
非常事態だからやれ!お前の気持ちなど関係ない!恩返しするべきだろう!とある種執念とも取れる程のものを感じる・・・。
こういう家族が困っているのだから家族が真っ先に助けるべきだ!の前ではどんな気持ちも不安もストレスも一切排斥されてしまう。試しに不満の一つでも挙げてみるといい、するとこの世のあらゆる恨みでも買ったかのように睨みつけられるから・・・。
運転自体も恐怖を感じるくらい嫌だし、また車校に通うのも非常にストレスである。
LITALICOや就職に関してのストレスもあるし、どうしてこう解決できないまま、次から次へと重圧ばかり圧し掛かってくるのか。
確かにやってみたら出来る事なのかもしれない。だけど苦痛やストレスは当然無視できないし、正直どんな理由があろうと不本意は不本意だ。意欲が出ない、仕方が無くやらされている。自分が出来ているのだから、周りの人たちだって皆やっているのだから、お前にも出来る、慣れだ、やるべきだ!という理論は本当に腹が立つ。
そこにはこちらの気持ちだとか、状況だとか、能力だとか、受けるストレスの事とか一切考慮されていないし、考えてくれる気もない。こう語る人は自分の理論を信じて疑わないので、弁解の余地も一切ないのである。
人が苦しむ事の代表は、周りからの期待と要求かもしれない。
単純な運転要員なら叔父や妹がいるが、両者とも、特に叔父は全く期待されていない。きっと交渉すらしていないだろう。
叔父は身の回りの世話を全てやらせているし、妹も金の管理が全く出来ず浪費しては金を無心するクズみたいなやつじゃないか。
この二人だって調整して、送迎に手を貸すべきじゃないのか・・・。
申し訳ありませんが無理です!なんて言おうものなら、徹底的に排斥されるだろうなぁ。
自分の処理能力を超えて、短期間のうちに問題ばかりが圧し掛かり、解決の糸口も未だ掴めない、周りは「そんなの気持ち一つですぐに解決できるだろう」程度にしか考えてくれないので、気持ちは沈み込むばかりだ。