一人舞台

生きづらさに悩む、元ひきこもりのブログ、日記

生き辛さに悩む元(暫定)ひきこもりの「日記」

差別感情の哲学より3

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一冊の本から得られる情報を全て理解出来たら素晴らしい事だと思う。

だけど自分に理解できるのはその内のたった数パーセント。しかし、その数パーセントが自分の世界観に与える影響は少なくない・・・かもしれない。

そうであるならば、時間をかけて読み進める価値は十分にあるだろう。

いい加減引用ばかりしていてもしょうがないので、この一番長い「気になった箇所」を最後としましょう。(多分・・・)

打ち込んでいくのが大変だけど、どれも必要な文に思えて省略の判断がとても難しい。

 

 

 

(西洋型)近代社会の残酷さは、「個人主義」という名のもとに、各個人の知的・肉体的能力の差異を認めたうえで、フェアな戦いを要求することである。
フェアに戦えば、もともと能力の優れている者が勝つこと、能力の優れていない者が負けることは当たり前であるが、あらゆる差別に対して神経を尖らせながら、こうした能力差別については問題提起しない。

しかも、負けた者、成果を出せない者が、自分の能力のないことを理由にすることさえ、許されないのが実情である。
「その前に君は努力したのか?」という問いがいつも控えている。
そして、本当の所は誰も信じていないのに、努力すれば必ず報われるという神話がまかり通っている。


これは考えれば考えるほど残酷な事態である。不美人がどんなに努力しても美人には太刀打ちできないし、鈍才がどんなに努力しても秀才にはかなわない。
しかし、それを知りながら、恋愛感情において、入学試験闘争において、それを理由にすることがほぼ禁じられているのだ。
それを理由にすること、そのことが「負け犬」とみなされるのだ。
たとえそうであっても、「努力せよ!」という鞭の音が聞こえてくるのだ。
実は、各人間の生まれつきの肉体的・知的格差(「人間的能力格差」と言えるであろう)は、火を見るより明らかなのに、それを不思議な仕方で見えないようにして、皆取りつかれたように「努力、努力」という掛け声だけを発するのである。
こうした残酷な状況を子供たちはすでに体の底から学んでいる。その岩のような欺瞞の前に身をすくませている。
Aちゃんは目が覚めるようにかわいくて明るくそのうえ成績も良いのに、私はブスで暗くて頭も悪い。
皆それを知って、Aちゃんをちやほやし、私から顔を背ける。それなのに、私は不満を訴えてはならないのだ。
訴えた瞬間に皆から腹を抱えて笑われるのだ。そしてこの格差が死ぬまで続くのである。それなのに、私はこれを問題にしてはならないのである。

 

昨年夏、秋葉原で通行人を轢き殺した男(K)は、彼をいささかも擁護するわけではないが、こうした叫びを代弁したものだと私は思っている。
そして案の定、あらゆる報道機関においてあらゆる学者・評論家。コメンテーター達は彼に猛烈な批判を浴びせていた。
彼らは口裏を合わせたかのように、「同じように苦しんでいる厖大な数の人が立派に生きているのに」と喋りまくっていた。
決して「同じように苦しんでいる厖大な人の苦しみを改めて問題にしよう」という向きに舵を取ることはなかった。
こうしたはなはだしい欺瞞を聞ぎつけて2ちゃんねるをはじめとする裏ネット社会において、Kが英雄として祭り上げられたことは、多くの若者たちがKの提起した問題を敏感に察したことを示している。

百万人にも及ぶと言われる「ひきこもり」や、年間三万人を下らない自殺者や、加速度的に増大する鬱病者たちは、こうした努力社会の正真正銘の犠牲者ではないかと思っている。
彼らは努力に疲れたのではない。努力してもダメだと言ってはならないことに疲れたのだ。
いわば、近代社会の残酷さの真実を見てしまったのであり、それは真実であるから、目を逸らせることが難しいのである。
「それはおかしい!」と叫びたくても、叫ぶことさえ禁止されて、自分を責めることに邁進していく。
差別問題においては、身体障害者精神障害者被差別部落出身者・在日韓国朝鮮人性同一性障害者などに対する「特権化された差別」と並んで、こうした見えない差別がじわじわ浸透している。
こうした差別は、特権化された差別に比べて無限に「些細な問題」に見え、しかも近代社会の基本枠に関わるがゆえに、社会制度的解決が難しい。
我々は努力しない人に向かって、肯定的評価を下すことは難しい。
といって、フェアな戦いを拒否し、裏工作する人を軽蔑しないことは難しい。
社会不適合者は、フェアに戦えば負けることは目に見えており、といってちょっとでもアンフェアを持ち出せば軽蔑され、場合によっては罰せられる。
しかも、ここにはいかなる差別もないとみなされている。これほどの過酷かつ欺瞞的な状況があろうか?

 

 

 

自分にしてみても、会社で働くことがつらくてしかたがなかった。

何回教わっても仕事を上手くこなすことができなかったし、うっかりミス、物忘れも頻発し、メモを目に付く所へ張っても「メモを見るという」課題を増やしただけだった。

朝も大変苦手で学生時代から、いつもギリギリまで寝ていた。

「仕事さえ!仕事さえなければ、自分はこんないい加減で、やる気の無いダメ人間などと思われずにすんでいたのに!自分のことなど知られることも無かったはず!仕事が自分をダメ人間にさせているのだ!」そんな風にも考えていた。

周りを見ては、「あんな風にならなきゃいけないなんて、自分には無理だ・・・」と何度思ったことだろう。

世の同胞の中にも社会復帰と称し、働きに出て、その様子をネットで報告している人を見かけるし、「今の、これからの自分には必要だから、頑張っていこう」と前向きに考えていればいいのだけど、そんな人は稀で、やっぱりつらいんじゃないか。

こんな状況下で「他の人も頑張っているのだからお前も・・・」なんて言われたら、大層やるせない気持ちになることだろう。

 

今までの失敗経験の中には、確かに自分の態度が問題だったことも勿論あった。その後激怒されて、反省しました。

だけど、それと同じくらいどうしようもないこともあった。とにかくつらかった記憶しか残っていない。この状態で一歩を踏み出すのは物凄く勇気のいることだし、勇気を振り絞ったからといって、上手くいく保証はどこにもないのである。

一番つらいのは「もう無理です。出来ません。」と言えない、それを封じられた空気だと体感的に思う。

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