一人舞台

生きづらさに悩む、元ひきこもりのブログ、日記

生き辛さに悩む元(暫定)ひきこもりの「日記」

ひきこもる人に、社会を拒絶する人に味方なんていない

若者サポートステーションの面談を「企業への面接」と親に勘違いされる珍事があった。LINEでのやり取りだったけど、そりゃあもう喜びましたよ。ぬか喜びだけど。

前にも書いたけど、腹の底から不快感が湧いて出てきた。だって悔しいでしょう。

働くこととか、人間関係とか、劣等意識とかで小学生のころからずっと悩んできたし、その事に関してロクに話を聞いてくれなかったし、会う度に厄介者として叱責され続けてきた。社会に出ていって働いて自立することなんてできないから、何もできない無能な自分を受け入れ叱責に耐えてひきこもるしかできなかった。

親の一言一言が自信とか気力とか、そういったものをじわじわそぎ落としていくわけですよ。本当に自分には何もできない、何も変えられない。あらゆる人を見ては劣等意識に苛まれる。そういう鎖でがんじがらめにしてしまった。そんな状態になる一翼を担った人が「味方は自分だけ」とのたまうのだから、言葉を堪えるので必死だった。

それがなんだ、面接が決まった(と、勘違い)だけで、飛びあがるかのような喜び具合。悔しいでしょう!やるせないでしょう!

親や背後にある世間としては、やはり単なる就労問題、甘えでしかないのか。そこに自分なんていないんだよ。

しかももし本当にそれで仕事が決まったとしても、単に再就職しただけであり、31歳高卒、資格もスキルも無い元ひきこもりにできることなど高が知れている。またつらい労働に耐えるだけの日々が続くに決まっているじゃないか・・・。

その後があるんだよ。その後が!

ひきこもる人に、社会を拒絶する人に味方なんていないよ。味方「の様な人」なら溢れるほどいますがね。

職場体験で報酬を貰うのは悪いことなのか

この前の一件で、職場体験の話が出たので思うことを。

まず結論から言うと、体験をさせてもらえる身でなんとおこがましい!と怒られそうだけど「体験であっても報酬を貰ってもいいのでは?」ということ。

 

自分も何度か経験しましたけど体験とは申せ、1週間フルタイムで働く(時間は場所によりけりですが)のは、未知の世界、未知の人間関係の中にあるのは長年ひきこもった身には結構応える。

それに体験でできることや説明なんて高が知れているので、それが終わるとなんだかんだで雑用などの力仕事をやらされることが多くなる。少なくともこの部分に関しては報酬を貰っても罰は当たらんでしょ・・・と何度思ったことか。

確かに所詮体験。体験させてもらっている身。しかし全く仕事に貢献していなかったのか?

体験をしても合わなかったりすると残りの期間を過ごすのが重苦しくなるし、能力を疑われてきつい追及をされることもある。

運良く「ここなら大丈夫!」と思えればそのまま採用もありうるかもしれないけど、そうでなかったら、これは悲劇だ。

そこで報酬があれば、悲劇であっても「とりあえずお金が貰えたから、自分にご褒美でも」と救いになるし、次へのモチベーションにもなると思うわけですよ。

そうでなきゃ「体験なんて二度と行くか!」ってなっちゃうでしょ。

しかし残念ながらこういう発想が先方や支援者側から生まれることはないであろう。

だから体験に行くときは慎重に。

評価してくれる人がいると変わる?

絵にしろギターにしろ、コツコツと練習を重ねています。もう3弦の予備を切らすくらいには練習しています。(誰か3弦プリーズ泣)もうどれくらいが経ったろうか、いい加減「これはできます!」と自信を持って言えることの一つが欲しいところ。

今練習中の曲の方は運指の精度さえ上がってくれれば、弾ける状態にあると言ってもいいような気はする。曲といっても練習用の1分あるかないかの短いものですが。

確かに始めたての頃よりは大分上達はした・・・はず。だけども基礎も怪しい部分があるし、課題の完了ラインのあと一息が乗り越えられずにいる。

あと一息を侮ってはいけません。これが乗り越えられずに挫折した人も多いことでしょう。ギターを持っては「結局練習だけで一生を終えるのでは?」ととても不安になるが、人生は思い通りにはいかないよね。

思うに「評価してくれる人」がいるとかなり変わってくるのではないだろうか?

それも「上手くできたから評価してくれる」ではなく、「小さな変化を見つけて評価してくれる人」こういう人が身近にいるとやる気が違うでしょ?見てくれる人がいると、どんどん伸びていくことでしょう。

 

ATH-A900のスポンジ部分の修理

確か10代の頃、初任給で買ったヘッドホンだったと思う。

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年代物?でイヤーパッドは謎の社外製で対応できたけど、今度は頭に乗せる部分のスポンジが死んで使っていると痛い。ちょっとした拷問器具のようだ・・・。

確かこの部分だけ注文ができたような気がするけど、そんな必要はありません。

 

 

 

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爪で固定されているだけなので、引っ張れば簡単に取れる。

 

 

 

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ここに詰め物をする。自分が使ったのは床掃除用の布巾。

 

 

 

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その差は歴然!これでまだまだ使えるだろう。

30過ぎてから死ぬことを考えるようなった

「30過ぎてから死ぬことを考えるようなった」

死にたいって意味ではなくて、誤魔化しが効かなくなったというような。奇しくも同じこと書いている人を偶然見かけて、本当にそうだよなぁと共感した。

思えば20代の頃は万能感があったように思う。いや、今と変わらず無能ではあったのだけど、何となく「若い」っていうので持っていた。それが30を過ぎてみると通用しなくなってきた。これからどんどん歳を取って、出来たことが出来なくなり、思考力も落ち、病気がちになって死んでいく。どう考えたって不幸なことでしょう。

多くの人は学校が、仕事が、子育てが、友達付き合いが、趣味が、身近な問題がと、「高々数十年で死んでしまって二度と生き返らない」なんて考えないのではないか。

それが、自分のような孤独で暇人だと誤魔化せなくなる。早い人だと小学生から考えるらしいのだから人類普遍のテーマだよなぁと思う。

ある人は「人生は暇つぶしだ」と答えていたけど、自分は「誤魔化し」だと思う。「目隠し」でもいいだろう。

今度の件で奇跡的に仕事に就くことができ、問題が起きなかったら、ありがたいことだけど虚しくなるだろう。これまでは経済的なこと、親から叱責、世間体、将来の事・・・などなどで頭がいっぱいだった。それが無くなったら?そしたら二次的、三次的なことばかりで死ぬこと以外に大事はないのではないか?自分も人生を半分だけ降りた生き方が理想的かもしれない。

 

人生に生きる意味はなく、「すべきこと」も無い。

あなたでなくてもいい。代わりはいくらでもいる。事が仕事的なことであればそうだろう。

だけどあるのではないか?一人一人に与えられて、誰にも奪えない、正にその人にしかできない、すべきことが。

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