一人舞台

生きづらさに悩む、元ひきこもりのブログ、日記

生き辛さに悩む元(暫定)ひきこもりの「日記」

支援よりは教育に近い

就労支援代表者の背後に世間の規範を見る。

 

今日は前回のなかぽつの続きで、例のパソコン教室の説明と見学に行ってきた。

その間代表者とのやり取りが、わかっちゃいるけどつらかった。

 

「ひきこもっているより、毎日通う所があった方がええやろ」

確かに自分でもそう思うし、そう言ってきたが、自分のあり方を暗に否定されているようで、直さなければいけないことのようで他人に言われるのはちょっと・・・。

 

教室の担当者に利用時間の説明を受けて、朝から来るのが難しかったら、この11時からでもいいと言われたので、朝が苦手でリハビリも兼ねて最初は週3日からお願いしますと伝えたら、代表者が「あのねぇ、今はええけど、これから社会に出て働く以上は、朝が苦手ですとか、週3日とか言ってられんよ。ゆくゆくは延ばして週5でやる意識で考えてくれんと困る」と。

もう嫌っていう程そんな話は聞いてきたし、問われたし、挫折してきた。

わかる。わかりますとも。世間はそういう常識、当たり前すぎるくらい当たり前の規範と経済事情で動いている。端的に言ってそれに難色を示すのは「甘え」なのだろう。

わかる。わかるよ。一応これまで3回それでやってきたんだ。

だけど、つらいんだよ。開口一番それを伝えているはずなのに、何故「最初は短時間、慣れたら上を目指す話」に変換されるのだろうか・・・。

やっぱりそうなのか。理解がある振りをして、やっぱりそういうことを言うのかと本当に悲しい気持ちの中とぼとぼ歩いて帰ってきたよ。

こういう経験が、働くことに対する苦手意識へと積もっていくのだろう。結局気が済んだら、落っこちた場所へまた戻れと言っているように聞こえるし。

まあ、文句を言ったところで誰かが楽な道を用意してくれるわけでもないけどさ。

いつになったら前向きに自分の人生を形作っていけるのだろうか。人生行路と経済が分離してくれればいいのに。

 

 

やはり支援なんて頼りたくない。

支援よりは教育なのだ。君の甘えた考えは世間では通用しないよ。だから世間でやっていけるように教育してあげよう。訓練しよう。従いないさい。

もし、働くことに恐怖や抵抗があって支援に通うのなら、こういうことになりかねない。

自分一人で道を切り開いていけたらどんなにいいだろう。そういう強さや機知があってくれればどんなにいいだろう。誰かの助けを借りれば「ああせよ、こうせよ、ああなるべき、こうなるべき、自覚を、意識を持て」が待ち構えているんだよ。

他人を頼るなんてロクなもんじゃない。

世の社会人から見ると、自分は思春期真っ只中の中学生のように見えることだろう。

 

以前デイケアの担当者から聞いた、「雇った障害を持つ方たちが、ある日突然辞めてしまう。何故でしょうか?」と相談されたという話を思い出して、理由は本人にしかわからないけど、「言えなかった、耳を傾けてくれる人がいなかったんだろうなぁ」と想像する。そんな人の一人でもいてくれたら「突然」にはならんでしょ。

 

 

 

 

やっぱ、つれぇわ・・・。

 

LISTEN 「知性豊かで想像力がある人になれる」

 

 

 

何年か前に買った本で、今回で3周目。

著者のケイト・マーフィー氏が自身の経験と、聴くを仕事にしている人たちとのインタビューから、「聴く(訊く)ことの重要性をひたすら語り続ける」本。実用書とはちょっと違って、解説に近いかな。

 

 

辞書か!?というくらい分厚い本だけど、難しい話はほとんどなく非常に読みやすい本だ。

「聴く」とは相手の話に耳を傾け、「何を語っているのか?その事柄はその人にとってどんな意味があるのか?理解しようと努め、相手が話し終わるのを待つことではない」と受け取った。

その対極に位置するのが、話し終わるか終わらないかのうちに意見を挟んだり、求められてもいないアドバイスをしたり、スマホを弄ったり、あなたはこういう人だからという決めつけや思い込みが挙げられるだろう。

アドバイスをしようと、気の利いたことを言わなければと考えていると大抵失敗するとのこと。

 

読んでいて印象的だったのは、聴く姿勢は相手に対する敬意や贈り物。とはいえ、全ての人の話を聴くことなどとうてい不可能である。よって、「誰の話を聴くのか?」は選べるし、選ぶべきであるということ。

会話が上手くいかないのは自分の傾聴力の至らなさなのでは?と悩むこともあるけど、そもそも合わない人は合わない。時間や体力は有限であることを自覚しなければならないし、できるのが優れた聴き手であるという。

 

あなたの話を聴いてくれる人は?そう実感できたのは?逆に体験を話してくれる人は?最後に人の話に真剣に耳を傾けたのはいつ?

本書の中には話を聴いてくれる人がいない、と同時に聞かせてくれる人もいないとの話がでる。そういう視点は今まで無かった。切ないね。

雨降って地固まる

新卒で働いていた10代の終わりごろ。

人事異動で仕事についていけなくなり、思い悩みながら台車を押していると、前方不注意でパートのおばちゃんにぶつかり激怒され、平謝り。

後日声を掛けられ「あの時怒りすぎてしまったけど気にし過ぎたらいかんで。とはいえ、怪我につながる危険行為だから気を付けるように」と言われ、以後友好的に。

 

同時期、帰りに自転車を漕いでいると、洗濯物の入った袋を持ったおばちゃんを避けようとして袋に当たってしまったのか、洗濯物をぶちまけてしまった。

当然大激怒。戻って平謝りしていると怒りも収まったのか、許してもらえた。

 

自転車屋でアルバイトをしていた20代前半のころ。

店の方針でパンク防止剤を勧めることを言われてたのだけど、断られることが多く、また自分でも効果が疑問だったのでいつしか勧めなくなっていった。

当然営業成績でバレて、店長に何故勧めないのかを問われたら「いまいち効果があるのか実感できなくて、そんなのを勧めるのはどうかなぁ。漕ぐの重くなるし・・・と思って」と今思えばとんでもない発言なんだけど、言ってしまって、一瞬「こいつ正気か!?」とぎょっとした顔をされたものの、「いいよ。効果を見せたるから、廃車持ってきて!」と言われて実演してくれた。

その後「まあ、君の言うことも一理あって、昔は実演していたんだけどねぇ」と。

ああ、店長良い人だなぁと思った瞬間だった。

 

工場で検査をしていた20代も終わりごろ。

自分のミスで出荷作業の人に迷惑を掛けてしまった。

「お前、あれ間違えただろ!おかげで迷惑したんだけど!」と言われて「いや、お前は呼ばわりはないでしょ!」と心の中で憤慨するも、迷惑を掛けてしまったのは事実なので「自分の至らなさで申し訳ありません!以後気を付けます!」と伝えたら「うん、まあ、わかればいいよ」と言ってくれて、後日「いや~エヴァンジェ君、ハローワークの求人から来たんだって?俺もそうなんだよ。ここ労働環境悪いよね?」と友好的な感じに。

 

今にして思うとクソな部分も多々あったのだけど、(本当に申し訳なく思う)相手の怒りを受け止める技術。非を認める態度が自分を救ってくれたように感じる。

社会参加する方がかえって孤独になる・・・かも?

直近だと若者サポートステーションやデイケア。それ以前にもひきこもりの集いや就労支援に参加することがあった。

最近特に痛感するのは、孤立しているよりも、多少なりとも人と接している方が孤独感が強くなるということ。

孤立している時には文字通り世界が家の中(と、精々近所)だけだったから、人と接することがない。接することがなければ他人の存在感が希薄でそれほど孤独を感じなかった。

ところが今みたいに何らかの集まりに参加していると、人との接触が出てくる。人と接するのが好きで得意な人はいいんだけど、自分のように苦手なタイプだと、確かに人の流れの中にはいるのだけど、その誰とも接してはいないという奇妙な感じになって、逆に切なくなる。

声を掛けてみて、掛けてくれて、親しくなれそうかな?なんて思える人に限って遠のいてしまう。切ない・・・。

孤立したくなければ集団生活に身を置かねばならない。自分を開いて、積極的に関わらなければならない。そうでなければ「話しかけづらい人」で終わってしまう。わかっちゃいるけど、それって結構きつかったり。

 

「夢を描いて、高い空見れば、届く気がして、余計に悲しくて」

 

それなら初めからない方がずっといいよ。

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