少しネットを開けば自分の意志に関わらず、実にいろいろな情報が飛び込んでくる。
止めなきゃなぁ・・・と思いつつも、ついついそれで時間を潰してしまって、疲れることもある。というより、脳が考えることを止めたいからそうするのかもしれない。
その中にはいろんな成功者の話、成功とまでは言えないまでも賞賛を浴びた話も沢山出てくる。
そんなのを眺めながら思うのは、「他人と比較せず、比較されずに生きていくことなんて、やっぱり不可能じゃないか?」ということだった。
SNSが発達して(思えばネットに初めて触れたのは自分が中学の時で、まだまだアングラ臭の漂う世界だったように思う。わけのわからないflash動画で笑っていたのが、十数年でこうも変わってしまうとは)いろんな人が情報を発信できるようになって、SNS疲れなんていうのが言われるようになったじゃないですか。
ネットを使うなら嫌でも他人の情報が目に飛び込んでくるわけですよ。誰しも自己顕示欲はあるでしょうし。
自分より優れた、運のいい人の話ばかりを見て、(大抵はそういう話しか上げないものでしょう)動揺しない人って、心に少しでも蟠りが出ない人って、何人いるのだろうか。
そういう現状を憂いてか、「他人は他人、自分は自分。他人に振り回されず、自分の価値観をしっかり持って生きていこう」的なことを目にするようになったのも最近のことのように思う。
それ自体を否定しようとは思いませんが、だけど無理だと思うんだ。いや、できるかもしれないけど、あらゆる人間関係を断絶しなければできないだろう。
極端な話ですけど、自分の友人が、高学歴で、高収入で、自分の知らない知識に明るくて、多彩な趣味、特技を持っていて、でかい家に住んでいて、名の知れた企業に勤めていて、容姿や服装のセンスが良く、友人も多く、美人な人と付き合っていて、高級な車を乗り回していたらどうだろう。外面では平常を装えていても、内心劣等感が湧かないだろうか?
最初からこういう条件で付き合いがあったのなら、気にならないかもしれないが、ついこの前まで自分と同じくらいの身分だったはずなのに、突然成功しだして羽振りが良くなったどうだろう?
自分がひけらかした知識にもっと詳しい説明を加えられたらどう思うか?
自分よりも器用にこなせたりしたらどう思うか?
あなたの友人は本当に凄いねぇと、友人の話題ばかりを挙げられたらどう思うか?
逆の立場であれば、相手を下に見ないと言い切れるのか。
成功者に、何か優れた表現ができる人に、誰かにとっての利益をもたらせる人に「価値がある」というのは変えようがないでしょう。
自分にしても、漢字を忘れることなく書けるようになりたい。英語が堪能になりたい。ギターも堪能になりたい。絵も堪能になりたい。文才が欲しい。いろんな知識が欲しい。認められたい。賞賛されたい。と欲望が尽きることはありませんが、そのどれもがダメだと思う。
何故ならそれらを得ている人と比べて、「そうなれるほどの機知も熱意も無い」からである。そこまでの努力はとてもじゃないができそうもない・・・。
そのことを認めざるを得ないから、ああ、だから他人を見るとなんと羨望と嫉妬が混じった感情が湧いてくることだろうか・・・。危害を加えようとは思わないが、これでは単なる卑劣漢である。
勿論見ないようにしているんだけど、それでも全く意図せず飛び込んでくることも少なくない。ネットを断絶しない限り不可能です。
動揺し、比較し比較され、悩んで生きていくしかないだろう。
せめて卑劣な感情があることを重々自覚して生きていかねばならないと思う。
このことを持ってして、他人と比べずに生きることは大変難しいのではないかと思うのです。
それができるとしたら、恐ろしく鈍感な人か、他人を排斥した人か、自分と同じレベルの人だけで共同体を築いた人か、逆に自分に絶対の自信を持つ人か、そんなところなんじゃないでしょうか。
かつて自分と同じレベルだったのに「一抜けた」となった時には悲惨である・・・。