一人舞台

生きづらさに悩む、ひきこもりのブログ、日記

生き辛さに悩むひきこもりの「日記」

能力の低いひきこもりは社会に居場所はあるのか

それにしても計算を勉強しているとつくづく自分の能力の低さを痛感する。何がわからないのかもよくわからず、苦痛過ぎて続けられない。何も計算だけではない。あるゆることがそうなんだと思う。

学業成績は点でダメ。仕事にはついていけなかったし、今の家でも自分の役割というものが、「これができます!」というものが無い・・・。無職無能の居候・・・つら過ぎる。

 

ひきこもり問題も大抵家族で、一人で抱え込んでがお決まりだし、自分も半分はそうなんだけど、もう半分は「この問題が自分一人では解決できない」ことを察して、自分で調べてここはどうか?あそこはどうか?と人に助けを求めるし、それ自体にそれほど抵抗がない。もともと底辺なので失うものがほとんどないせいだろうか。ひきこもったことが既に落ちこぼれ、恥なのに世間体?これ以上何を恥ずべきことがあろうか。(頭が悪いことである!)何故皆調べない、相談しないと思うのだけど、自分のように相談してダメだったのだろうか。

自分で解決できない無能さだと思っていたけど、まあ好意的にも解釈できる。

嫌だ、うんざりだと文句を書きつつ、支援に行き、面談に行き、見学に行き、となんだかんだと行動しているわけですよ。何か奇跡よ起こってくれ!と。それをもって「行動力がある」と言われることが多いけど、でもどうにもならない。

何故なら、頼ったところで自分の弱さや能力の低さを克服できたわけではないし、受け入れてもらえるわけでもないのだから。

何の才能も無く、頭の悪い人は誰にでもできる肉体労働や単純作業しかないように思う。今まで挫折してきた単純できつくて長時間拘束されるような。誰にでもできるから、人の流れも早いであろう。

自分という人間的性能は競争社会を勝ち抜いていけるものではない。

ひきこもり脱出といったって、一部の隠れた有能な人以外は非常に危うい橋の上を歩いていくのが関の山なんじゃないだろうか。

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