一人舞台

生きづらさに悩む、元ひきこもりのブログ、日記

生き辛さに悩む元(暫定)ひきこもりの「日記」

言葉の破壊力。他一遍

「お前の為を思って言っているんだ」

「お前の為になるから、あの本を読め」

「テレビでこんな番組をやるんだ。きっとお前の為になるから見ておけ」

直接こう言われないでも、言葉の前後に同じ匂いを感じたとたん、気持ちというか、意欲というか、やる気というか、そういったものがみるみる内に減退していくのを肌で感じる。

凄く「はぁ~・・・」みたいな気持ちになる。

ああいった言葉の破壊力はなんなんだろう?

手っ取り早くダウナーな気分になりたかったら、こう言われると良いみたいだ。

きっと本人に伝えてもまるで理解されないであろう。

 

 

歩いていると、脳が活性化するのか、ひたすらいろんな事を自然と考える。

先日のADD・PDDグループの時に何人か遅刻してきた人がいた。

自己紹介の時にその中の一人が、「時間管理が全くできず遅刻してしまう」と言っていたのを思い出した。

 

それが事実なら双方にとって不幸なことだろう。

恐らくあらゆる手を尽くしても「一人では」解決できないのであろうし、相手にしてみれば「いや、いくらでも対策できるでしょ」とか「そんなに時間通りに来れないってどういうこと?」と疑念が消えないであろう。

 

自分にしてみると時間管理が苦手ではあるが、意外と遅刻したことはそんなにない。

が、ギリギリ過ぎて怒られたことが何度かあった・・・。

友達が家に遊びに来るから掃除しなければと思いつつも、それを先延ばしにしてギリギリになって「時間が無ぇ!あの時にやっておけば!」と後悔したかと思えば、遅刻があってはならないと、念を押した挙句早く着きすぎたり「適切な」ということが未だにできない。

甘えなのか、性格なのか、件のADHDなのか自分でもよくわからない。

 

 

処分する決断力

部屋は取り立てて広くない。にも拘わらず事あるごとに模型製作に勤しんでいるので、場所を圧迫する。

掃除するのも大変だ。常に破損の危機にさらされる。

収納に工夫を凝らして場所を開けている人もいるだろうけれど、自分の場合だと箱にいくつかまとめて押し入れに入れたが最後、二度と日の目を見ない気がする。

或いは今だとネットオークションなどに出品するという選択肢もあり、以前は不用品をいくつかそれで処分してきた。

ところがいつの間にか、プレミアム会員でないと出品できなくなっているじゃないか。

尤も、素人が完成させたプラモデルに価値が付くとも思えないし、廃棄一択か。

 

正直完成させると執着が無くなるので捨てちゃってもいいんだけど、いざ手にかかろうとするといろいろ雑念が・・・。

この点フィギュアだと捨てやすい。自分が作り上げたわけではないから。

 

皆どうやって執着を断つのか。

必要ないと言えば、必要ないし、何の役にも立たない。

しかし、う~む・・・。

 

自己中心街道をゆく

前回の一件で思う所があった。

自己紹介はともかく、こちとら生き方、就職で悩んでいるのに何ゆえ親睦を深める伝言ゲームに付き合わなければならんのか・・・。しかも毎回やるって言っていたぞ。

そんなことに時間を使いたくないというのにまったく。

正式名称を知らないが、最初の人が例えば好きな物事を挙げて、二番目の人が前の人と自分の好きな物事を挙げていき、それを続けていくというゲーム。最後の人は全員の物事を挙げなければならないので負担が大きい。

 

これは確信を持って言えるがあの場にいた当事者全員が、やりたくなかったことだと思うよ。

来る人にはいろんな人がいる。そういう余興を進んでやりたい人、楽しめる人、やりたくない人。

何故選択肢を与えてはくれないのか?何故やってもいいか、やらない方がいいか聞いてくれないのか?

連中はきっとこう言うぜ。「決まりだから」「そういう趣旨だから」

ああそうだろう。参加しているのはこっちだからね。

しかし、なんとつまらない、多様性のない返事であろうか。

「それ」である必要なんてまったくないじゃないですか。伝言ゲーは嫌だけど、他の物事だったら参加してもいいという人もいるであろう。

別に仕事というわけでもないですし、寧ろやりたいかやりたくないか、必要か必要ないか、代替案はどうするかを議論し、結果として「やらない」となっても、変なゲームに強制参加させられるよりよっぽど実りあるものになったのではなかろうか。

自分の事、相手の事、いろいろ考え結論を出し、発言してみる貴重な経験だと思うよ。

そういう可能性をもバッサリ切り捨ててるんじゃないのかな。

 

それに特別親睦を深めたくない人だっているだろう。

深めたいと心の底から望む人にも、そんなものは必要ないんじゃないのかな。

「決まりだから」「ずっとそうだったから」みたいな場所に居座っていると、そういう議論や思考すら生まれてはこない。

きっとそういう場を乱す個人主義は邪魔な存在なんだろう。

 

司会、進行役、書記もあなたたちでやってもらいますと言われ、最初に感じたことが「えー・・・!!」

やっぱり来るべきところが違う気がしてきた。

ADD、PDDグループということだけど圧倒的にPDDよりで、自分は軽度のADHD(らしい)

つまり苦手ではあるが、基本的なコミュニケーションは取れるのである。

で、あまりに説明不足、説明下手なせいで、皆からわからん!わからん!どういうこと!?と矢継ぎ早に質問攻めがあったし大丈夫なのかコレ。

 

集団というのはどうしても一色に染まってしまう。

そりゃ染めていかないと集団として成立しないのでしょうがないんですが。

なんだか最近集団で何かをするより個人で適当に進めていく方が面白いことが起きそうな気がしてきた。

 

 

いざ進~め~や~訓練

進んだ結果、なんだかなぁ・・・。やっぱり疑念は消えず。

前回がオリエンテーションで今回から開始との事ですが、朝の9時半~2時までで、何をやったかと言えば、自己紹介、伝言ゲーム、アンケート、ちょっとした説明。時間かけ過ぎだよ。

で、またもや次回以降の予定や中級では何をするのかの話は無し。

もういい加減タイミングを見つけて聞かねば。

 

初回では恐らくコミュニケーション能力を鍛える方向性で行くのかな?

自分が自己紹介で「よく喋ってくれてありがとう」とか言われる時点でなんかおかしいんだよ。

親からも「あんたはつまらない返事しかしない。コミュニケーションの重要性を理解してねぇ」とか言われましたが、そりゃ会話の特に雑談は最も苦手ですし、興味のない話題を振られれば、そっけない返事に誰だってなるでしょう。

自分が悪いんですかね。面白い返事が欲しかったら、興味を引く話題を振りなさいよ!

 

それにしてもいろんな人がいました。

さっそく周りで雑談を試みてみる者、一人でいる人、会話に入りたくても入れない人もいるかもしれません。

自己紹介の時も普通に話が出来る人もいれば、しどろもどろで出来ない人もいた。

 

とりあえずわかったことは、やっぱり集団は嫌いだと。

集団になると、集まる人たちに主導権が以降してしまいがちで、そこでは個人の意見や考えは、あまり受け入れてもらえない。

全員が一致団結することって、あんまりないでしょ。

「みんな平等に同じことをしましょう」

親睦を深めるため、伝言ゲームをしましょうと言われても、参加しませんはありえないのである。

見ていて辛かった。苦手な人は人前でしゃべる事が本当に苦しそうで、しどろもどろで顔を真っ赤にしてなんとか参加していた。

逆に言えば、喋ることがあれほど辛く感じる人もいるのだと考えさせられた。

尤もそういう自分を変えたくて参加しているだろうし、致し方ない部分はあるけれど、あの人たちが過ごしやすくなるようには、恐らくならないであろう。

 

社会なんてそういうもんだと親に言われたし、そんなことは重々承知しているよ。

知りつつもやっていかなければならない。今までだって、これからだってそうでしょう。「だから」嫌いなんだと。

 

やらないよりはやった方がいいかもしれない。だけど、これは本当に今、自分に必要なことなんだろうか・・・。

そうじゃないんだ。仕事だよ仕事。なんとか苦痛なく続けられる環境さえあれば、わけの分からん馴れ合いや、訓練なんて必要ないんだって。

結局職に就いたら一から学び直すでしょ。やる事も環境もまるで違うのだから。

そういうことを相談できる機会は果たしてあるのか!?

 

 

 

 

 

これは焦りだろうか

当ブログも、ここ最近で訪問者が少しづつ増えてきました。

タイトルや内容だけにひょっとしたら同じような身の上の人も見ているのでしょうかね。

 

周りが自分に期待していることは「就職すること、自立すること」

でも自分としてはちょっと違って、もう少し広く見て、自分にあった生き方とか、苦痛じゃない生き方とか、件の嫌な事で死なない生き方を見つける事。

だから出来そうかな?やってもいいかな?と思える事であれば、いろいろやってみた。

しかし、同時に流されているような気もする。

「これが自分に必要なんじゃないか?」「本当はこうしたいんだけど」という気持ちを抑えて、周りのすすめる方向に進んでいるというか、世間体と自分にあったやり方とは何か?という間で揺れ続けているというか。

自分で決断し、職を決めたことも何度かあったけれど、それも元を辿れば周りや世間体に合わせての事だった。結果は無残だと。

 

件のグループに参加したのも、主治医がこういうのがあるから参加してはどうか?というのが事の発端。

普通なら「それはいいじゃないか」と喜んで?参加するのだろうけれど、何度考えても疑問の靄が晴れない。

この訓練を終えて終了ではないし、じゃあ就職して晴れて終了か?って言ったらそうでもないだろう?その先も続いていくんだよ?

 

確かにこの訓練はそういうものを趣旨としているわけじゃあないと思うけど、必ずそこを通らなきゃならないわけじゃないですか。既に安定した職を得ていたり、家庭があって上手くいっていて、そこに問題意識がなく、あくまでADHDの訓練のみを求めるのであればともかく、そうでないなら無視するわけにはいかないと。自分はセットなんだ!

そういう話まで真剣に相談できる場であってくれればいいが、やはり場違いか・・・。

 

お金と、時間と、慣れない、居心地の悪い集団生活に耐えて参加しています。

またもや参加するべき場所を間違えているのか?意味のあることであってくれないと困る!だから内心焦っているのかもしれない。

よく就職訓練(ハローワークで紹介しているのとは違うやつ)とかポスターを見かけるし、そっちに行くべきかとも思うけど、よく考えればあんなのおかしいよ。

とは言え参加することを止めてしまえば、繋がりを失い再び振り出しに戻ってしまう。

 

まあ、いずれにせよ、初級は責任持って参加しますし、この数日の悩みが杞憂に終わってくれるといいのですが。

 

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