一人舞台

生きづらさに悩む、元ひきこもりのブログ、日記

生き辛さに悩む元(暫定)ひきこもりの「日記」

「邪魔!」他人の無関心

ウォーキングの為に夕方外に出ると、何やら人がぞろぞろ移動していく光景があった。

嫌な予感が的中、また近所で祭りがあるのだ。先月やったばかりじゃないか・・・。

いろんな箇所から一点に向けて人が移動するので、どのルートでも混雑していたし、そこら中路駐だらけで酷い光景である。

まあ、それだけならなんとか我慢するのだけど、狭い道に自転車に乗った中学生と思しき連中が5人ほど並んで道を塞いでいる。

明らかに自分が道を通ることを見ているはずなのに無関心、まるでそんな人などいないかのようで、全くどく気配がしない。

あんまりにも頭にきたので、「邪魔!」と理性より先に口が出てしまった。

あいつらにとっては初めてでも、自分にとってはもう何度こんな思いをしたかしれない。

更にその後、いつもの交差点でいつものように信号無視の車に轢かれそうになる。

警戒はしているのだが、混んでいたりすると判断が難しい。

 

ぞろぞろ歩いて道を塞ぐ集団に出くわす時、その誰もが道をあけてくれない。

通ろうとしているのが見えているはずなのに!他にも子供がうろうろして進路を妨害するんだ。それ自体は仕方がないけど、こちらが「どう避けたものか」と迷惑そうにしているのを見ているはずなのに!、親は何もしないのである。

一体何なのだろうか?何故無関心なのだろうか?あの人たちには他人が見えない、というより存在しないのだろうか?

 

話は変わって、祭りで思い出したことがある。

以前、「近所の祭りがうるさいから中止しろ!」と苦情を言った人の話がニュースになった。

賛成派の意見曰く、皆やりたいのだ、子供が楽しみにしている、迷惑だ、祭りが無いなんて寂しいじゃないか、といったことが見受けられた。

別にそれ自体におかしな所はないですよ。当然の権利です。

祭りをやるべきか、中止にするべきかの是非はわかりません。

が、

物申したいのはこういう時、反対意見を言った人が無条件に悪者になるということ。

中止を迫られることは、やりたい人にとっては迷惑なことでしょう。しかし、この人にとっても祭りの騒ぎはとても耐えがたい事、同じくらい迷惑だったのかもしれない。

さらに意見を見ていくと、中止を迫るなんておかしいのではないか?少数の為に全体が迷惑する、この国は民主主義だ!これだから老害は・・・と続き、呆れるのは、引っ越せばいいじゃないとか、数日のことなんだから我慢すべきといったものまで。

一度逆の立場で考えられるだけでも、考えてみるという発想はないのだろうか。

 

もう一度言っておくと、やるやらないの是非は自分にはわからない。だけど反対意見を言っただけで、こうも悪者扱いされるのはどうかということです。

絶対的に正しい真理のような意見なんて存在しないだろうし、必ずと言っていいほど反対意見は出るものじゃないですか。

どうしてこんな一方的なことが言えるのか考えると、恐らくこの人たちは、自分の考えが自然と大勢の人と一致して、そのことによって「無条件」「正しい」となるのではないかと推察します。

自然に、無条件に大勢が味方になってくれるのであれば、怖い物などないし、考えることも、その必要もなくなるでしょう。

そして真顔で「人に迷惑をかけるな!」なんて言うのではないでしょうか。

これがいかに過酷で虚しい要求であるのか考えたことがあるのだろうか?

最初の一件と合わせて、「お前が俺にかける迷惑は許さん!だけど、俺がお前にかける迷惑は我慢しろ!」とでも言われている様で、非常に不快です。

その内人に注意したり、反対意見を言ったりすると見ず知らずの人様に注意するとはなんだ!不届き千万な奴だ!と狂人扱いされるんじゃないですかね。

 

一番良いのは意見と意見がぶつかりあうことじゃないですかね。

洗いざらい自分の意見をぶちまけて、聞く方も相手の話をバッサリと切り捨てずにしっかり耳を傾ける。

そんなことを繰り返し、疲れ果てた所で「わかった!わかった!じゃあ、こうしよう」という線引きが出来れば、お互い納得しやすいのではないかと想像します。

 

 

 

懺悔

最後に仕事を辞めてから、というより挫折してからどれくらい経っただろうか。

「何故動かないのか?」そう問われたら、正直に白状します。「現状維持が楽だから」です。

やっぱりどう考えても、言い訳しても、そこに行き着く。そうならざるを得ない。

社会に出るのは不安です。人間関係は難しい、しんどい。また仕事についてダメ人間っぷりを発揮して、怒られ続け、「どうしてお前はいつも・・・!」となるのはもう嫌です。長時間労働にも耐えられない。

仕事さえなければ「普通」でいられるのに!何度そう思ったことだろうか。

 

ですから、「甘えだ!」と言われれば、認めざるを得ないでしょうし、内心自覚しているから嫌な気分になるのだろう。こんなんですから、同じ境遇の人にも甘えの精神を感じることでしょう・・・。

ですが、これが甘えなら、仕事や家族、収入、その他人間関係、自分の容姿、学力、能力に不満を持ちつつも「仕方がない、そういう風にしか自分はできない、皆そうだから、皆我慢しているから、嫌々続けて変える努力をしない」人も甘えだと言いたい。

他人に甘えだ!と断罪する人よ、自分にも牙を向けることができるのか!

 

とまあ、それはともかく。漢字が書けないと恥ずかしいから勉強しよう、英語も今勉強したら少しは理解できるかも、とたけけがカッコいいからギターを練習しよう、軟弱な体ではいかんから筋トレとウォーキングを続けよう、一応病院の就活デイケアにちょこちょこ顔を出そうと、こつこつ努力・・・?はしていますが、これがなんだというのだ。

就職に挫折したことが切っ掛けで、今の道が開けたと語る人が何人かネットの記事で見かけましたが、何故自分ではないのだろうかといつも思う。

そういう回り道をして認められる成功者にもなれそうにもない。

現状維持が楽だとは書いたけど、ふとした瞬間、心の声と形なき世間が自分を刺してくるんだ。今のままというわけにもいかないでしょう。

そう思って、確かに何度か働き始めたこともあったけど、結局挫折しちゃったじゃないか。

どうすれば、どうすれば!と考え続け、ただ時間だけが過ぎていく。

だから皆引きこもるのかもしれないなぁ・・・。

 

 

 

自分の価値観が大切・・・のはず

少しネットを開けば自分の意志に関わらず、実にいろいろな情報が飛び込んでくる。

止めなきゃなぁ・・・と思いつつも、ついついそれで時間を潰してしまって、疲れることもある。というより、脳が考えることを止めたいからそうするのかもしれない。

その中にはいろんな成功者の話、成功とまでは言えないまでも賞賛を浴びた話も沢山出てくる。

そんなのを眺めながら思うのは、「他人と比較せず、比較されずに生きていくことなんて、やっぱり不可能じゃないか?」ということだった。

 

SNSが発達して(思えばネットに初めて触れたのは自分が中学の時で、まだまだアングラ臭の漂う世界だったように思う。わけのわからないflash動画で笑っていたのが、十数年でこうも変わってしまうとは)いろんな人が情報を発信できるようになって、SNS疲れなんていうのが言われるようになったじゃないですか。

ネットを使うなら嫌でも他人の情報が目に飛び込んでくるわけですよ。誰しも自己顕示欲はあるでしょうし。

自分より優れた、運のいい人の話ばかりを見て、(大抵はそういう話しか上げないものでしょう)動揺しない人って、心に少しでも蟠りが出ない人って、何人いるのだろうか。

 

そういう現状を憂いてか、「他人は他人、自分は自分。他人に振り回されず、自分の価値観をしっかり持って生きていこう」的なことを目にするようになったのも最近のことのように思う。

それ自体を否定しようとは思いませんが、だけど無理だと思うんだ。いや、できるかもしれないけど、あらゆる人間関係を断絶しなければできないだろう。

 

極端な話ですけど、自分の友人が、高学歴で、高収入で、自分の知らない知識に明るくて、多彩な趣味、特技を持っていて、でかい家に住んでいて、名の知れた企業に勤めていて、容姿や服装のセンスが良く、友人も多く、美人な人と付き合っていて、高級な車を乗り回していたらどうだろう。外面では平常を装えていても、内心劣等感が湧かないだろうか?

最初からこういう条件で付き合いがあったのなら、気にならないかもしれないが、ついこの前まで自分と同じくらいの身分だったはずなのに、突然成功しだして羽振りが良くなったどうだろう?

自分がひけらかした知識にもっと詳しい説明を加えられたらどう思うか?

自分よりも器用にこなせたりしたらどう思うか?

あなたの友人は本当に凄いねぇと、友人の話題ばかりを挙げられたらどう思うか?

逆の立場であれば、相手を下に見ないと言い切れるのか。

成功者に、何か優れた表現ができる人に、誰かにとっての利益をもたらせる人に「価値がある」というのは変えようがないでしょう。

 

自分にしても、漢字を忘れることなく書けるようになりたい。英語が堪能になりたい。ギターも堪能になりたい。絵も堪能になりたい。文才が欲しい。いろんな知識が欲しい。認められたい。賞賛されたい。と欲望が尽きることはありませんが、そのどれもがダメだと思う。

何故ならそれらを得ている人と比べて、「そうなれるほどの機知も熱意も無い」からである。そこまでの努力はとてもじゃないができそうもない・・・。

そのことを認めざるを得ないから、ああ、だから他人を見るとなんと羨望と嫉妬が混じった感情が湧いてくることだろうか・・・。危害を加えようとは思わないが、これでは単なる卑劣漢である。

勿論見ないようにしているんだけど、それでも全く意図せず飛び込んでくることも少なくない。ネットを断絶しない限り不可能です。

動揺し、比較し比較され、悩んで生きていくしかないだろう。

せめて卑劣な感情があることを重々自覚して生きていかねばならないと思う。

 

このことを持ってして、他人と比べずに生きることは大変難しいのではないかと思うのです。

それができるとしたら、恐ろしく鈍感な人か、他人を排斥した人か、自分と同じレベルの人だけで共同体を築いた人か、逆に自分に絶対の自信を持つ人か、そんなところなんじゃないでしょうか。

かつて自分と同じレベルだったのに「一抜けた」となった時には悲惨である・・・。

相手にとっての有意義は、誰かにとっての無駄

人のやる事成す事に「無駄だ」とか「もっと有意義に時間を使え」だとか言う人がいるじゃないですか。

余計なお世話ですよ。そりゃ、そう言う人にとっては興味が無いのだから、無駄に感じて当然です。

どうもこう書き込んだり、言ってきたりする人は相手を下に見て、自負心を得ているように思えてならない。

でなければ、わざわざ口に出して人を不快な気分にさせるメリットなんてないでしょう。そう感じること自体は仕方がないことなので、心にしまっておけばよいものです。

 

その人にとっては無駄でも、他の誰かにとっては有意義なことなんて幾らでもあるはず。柔軟な思考を持ちたいものです。

最後の難関

前回リズムを偶然理解出来て、今までどう演奏するのか謎だった曲の後半部分の謎が解け、相変わらず指が引っかかるものの、同じリズムで演奏できるようになったことは非常に嬉しいことだった。

が・・・。

最後の難関、曲の出だしの後半部分のリズムがどうしてもわからない。

一応全部8ビートのオルタネイトピッキングで攻略できるはずなのだが、どう演奏しても、何度お手本を聴いても「こうか!」っていう感じにならないのだ。

ギターを習うとしたら、何を教わればいいのだろうか?教わる以前に何もできないのだが・・・と考えていましたが、「これ」を教わればいいのだ。

しかし、身近にギターを弾ける人はおらず、もどかしい・・・。

練習する内に謎を解明できればいいのだが・・・。

こんな謎解きをやっているのは自分くらいだろうか?皆楽譜を見ただけで、「こういうリズムで演奏すればいいのか」と判断できるのだろうか・・・。

しかし、楽譜に必要な情報は全て書いてあるものだしなぁ・・・。

 

当ブログではGoogle Analyticsを利用して、アクセス解析を行うためにcookieを使用しております。 Google Analyticsで集計したデータは、当ブログのアクセス解析や改良、改善のために使用させていただくものとします。 なお、cookieは個人を特定する情報を含まずに集計しております。 Googleによるデータの使用については、「ポリシーと規約」を参照してください。