一人舞台

ダメ人間より生まれるたわいの無い趣味と思考の数々

差別感情の哲学より2

引用することの是非はいろいろあるとは思いますが、読んだ時にはいまいちわからなかった事でも、文字にして打ち込んでいくと意外な程すんなり入っていくのがわかる。

(単に集中して読んでいなかっただけかもしれないですが・・・)

ただちょっと気になるから、後でブックメモを作るためにブックマークしておいた箇所の二つ目。かなり長いですが・・・。

 

差別意識を持たないことが殆ど不可能であるのは、小学校の頃から、「よいこと」を目指すよう教え込まれているからである。
清潔であること、規則正しくあること、勤勉であること、傲慢であってはならないこと、弱い者を助けること、こうした価値を教え込まれた子供が、これらを目指していない者を蔑むようになるのは自然である。
勤勉であることを子供に進める場合、勤勉である者を褒め、勤勉でない者を叱りながら、同時に勤勉でない者を軽蔑してはならないと教えること、様々な知識を覚えさせ、考え方を習得させ、テストをしながら、できる子ができない子を見下してはならないと教えることは、極めて難しそうに思われる。
田中克彦は、この構図をよく見ている。

 

このような制度の外にある、あるいは「制度によらない」差別こそ、差別の最高の形態である。
なぜなら、制度による差別であれば、制度を解消することによって解消することができるが、意識にもとづく差別の場合、その意識を変えるには、意識という、最も厄介な相手を敵にまわさなければならないからである。
意識は、利害損得に関わるだけでなく、倫理観や、美意識に関わってくる。
なかんづく、後者の改造は、ほとんど人間の手には負えないものである。
こういう差別こそ、本来の意味において、イデオロギー的と呼ぶことができると思う。
こうした制度外の圧力は、時に「趣味」と呼ばれるものと一致します。
だから高い趣味を持っていると自らたのむ人ほど差別人間だということがよく起こります。
(「差別ということば」明石書店)

 

差別問題と取り組む多くの人は、何故この極めて難しい問題を直視しようとしないのであろうか?
教師も親も子供たちに「よいこと」をするように教育し、その成果の上がった子(A)を賞賛し、しかも同時に、Aにそれを習得できないクラス仲間を軽蔑するなと教える。Aは理解に苦しむであろう。
もっとも、この超難問も解決されているかのような外観を保っている。何故か?
賢い子供は、相対的に見て、何が得であるかも学ぶからである。
勤勉であり、勉強のできる子は、同時にそのことを誇ってはならないことを学ぶ。
誇らなければ、ますます自分が得をすることを知っているからである。
だが、その場合Aは劣等なクラス仲間を外形的には軽蔑しないかもしれないが、心の内で彼らを軽蔑し続けるであろう。
そうでなくとも、少なくとも自分は彼らより優れていると誇るであろう。
成績も悪く、素行も悪く、怠け者であるBを、それでも「人間として」尊敬しなさい、という教師の言葉は、果たしてどのくらいの子供たちの心に訴えうるのか、真正面から考察する必要があるように思う。

 

 

これまで自分は差別感情を持っていない、持たない人間なんだと、どこかで考えていたのですが、正に自分は真面目にやっている、ルールにしたがっている、頑張っている、そういう感情から差別感情は生まれてくるのだと、気づかされる。

考えてみれば、そのようなことであれば幾らでもあったし、前にも書きましたがコンビニ店員のアルバイトの一件を思い出す。

普段行くコンビニに、新しく自分と同じくらいの年齢の人が慣れない手つきで一生懸命仕事をしていた。

その時も今も自分は無職なので、「自分と違ってこの人は偉いよなぁ・・・」なんて考えていましたが、そこでふと思ったわけです。

果たして高校卒業以来、あのまま例の大手企業で正社員を問題なく続けていて、となるとそれなりの役職にはついていたかもしれないじゃないですか。同じ光景に出くわしたら何を考えたであろうか?と。安心するだろうか?こうならなくて良かったと思うであろうか?と。

考えれば考えるほど、どうやっても道徳的に生きることは不可能だと思えてならない。

 

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