一人舞台

生きづらさに悩む、元ひきこもりのブログ、日記

生き辛さに悩む元(暫定)ひきこもりの「日記」

前向きに生きるのってつらくない?

現状をそのまま受け入れてほしい。多くの人が内心そう思うのでは?

 

今日もセミナーなわけだけど就労移行支援事業所提供で、半分説明というか宣伝というか、そんな感じで興味が持てず、奥で進められていた他の利用者さんの相談ばかり聞き耳を立てていた。

悩みは誤魔化せない。そこにその人の本心や価値観、生き方考え方が見えてくるようで関心を持たずにはいられない。何に悩み、どう考えるのか。尤も、人の悩みの相談を持ち掛けられるなんて、恐れ多いことですが。

 

やりとりを聴いていると「自分はこういうところがダメで・・・。」「いや、それは考えすぎだよ。そんなことないよ」とか「自分で悪いと思っている所を言ってほしい。長所に変えるから」なんていうやりとりが聞こえてくる。自分とて無関係ではない。

なんかこう、前向きになることを要求されているようで、つらくなりませんかね?

長所を言ってくれたり、そんなことはないと言ってもらえて元気が出る人は勿論それでいいんだけど、考えようによっては例え欠点でも、その人を形作る切っても切れない重要な構成要素であるわけだよ。人によっては生きていく上でのテーマかもしれないし、そんな位置からしか見えない視点もあるように思う。

だから、意図はわかるけど「そんなことはない」って言われるとどこか現状を否定されるような気もする。

自分も今後この前向きワールドに入って行かなければならないのだろうか?特に前向きに生きたいとは思えませんが・・・。

今のままではダメ。もっと頑張らなければ。就労を目指せ。対人関係を育め。そんな空気が感じられるような。

だけども、悩む人はそもそもそこに疲れ果てているのではないかなと想像する。自分なりに何とかやってきたし、人の意見や注意も聴いた。でも、ダメだった。どうも流れというか、空気感というか、暗黙の了解というか、なんかもう疲れたと。

そんな所に孤独や絶望を見出し、最悪の道へ行くのもどこかわかるような気がしてくる。

ああいう場所の性格上しょうがないのだけど、ただ悩みやつらさ、苦しみを淡々と語って、それをそのまま受け入れてもらえる場。そういう場所があると、解決にはならないけど、絶望することはないのではないか、セミナー中そんなことばかりを考えていた。

 

若者サポートステーション 心理カウンセラーとの面談

今日で二回目なんだけど、前回は取り立てて書くことが無かったので。

今ある不安についてや、WAISという心理テストの結果を踏まえて発達障害を考慮しつつ、どう働くかを話し合った。というよりその入り口段階といったところ。

それ以外にも「自己成長エゴグラム」なる心理テストも試してみて、その結果・・・

「優しい私」

思いやりがある。

人を褒めるのが上手。

人の話をよく聴く。

相手の気持ちを考えるなどなど

 

「自由な私」

やりたいことが沢山ある。

気分転換が上手。

よく笑う。

好奇心が強い。

物事を明るく考える。

未来について空想するのが好きなどなど

 

これらの項目が特に低い傾向にあった。(人との関係のあり方や傾聴については関心自体はある)

しかしよくよく考えるとひきこもり続けて、他者との関係が無いから必然的に低くなるのではないかと思えてくる。

時には一人でいる休息の時間は必要かもしれないけど、そこから抜け出せなくなると、停滞してしまう。

 

カウンセリングだからいろいろ話すなり、相談するなりしていくといいのだけど、正直もうそんなに話すことが無いような気もする。

もう悩めるだけ悩んだ。散々書いてきた。前にも書いたけど、それで何も出なくなったら後は具体的に行動に移すことの中からしか、次は見えてこないのだと思う。

自分に何ができるかなんてわからないし、劣等感の塊だし、過去を振り返っても嫌なことや迷惑をかけたことばかりである。そもそも社会のあるべきスピードについていけない、それが苦しくてしかたない問題もある。

 

就活が嫌でしかたがない。だってつらいことばかりだもん。

 

どこで踏ん切りをつけるのか・・・。それとも自発的な意思を見つけられるのか。焦点はここにあるのだと思う。

若者サポートステーション 「自分の思いを伝えよう」セミナーに参加

この1秒ほどの言葉に、一生のときめきを感じる、人の優しさを知る、一生の別れになる、人の弱さを見る。

あなたにとって、それは何ですか?そしてそれを皆で意見交換をしようという企画。

で、例のごとく、そんなことよりグループに分かれてやり取りするのだけど、正面の別グループの会話が聞こえ、奥から面談や電話対応の声が聞こえ、そんな中自分のグループの人の意見に集中しなければならないと脳がパンクしそうだった。

気が散ってあっちこっちに意識が引っ張られるようで、聴くのが大変難しかった。

 

「この1秒程の短い言葉に、人の弱さを見る」という下りで、「もう駄目だと思う」という挫折の意見が殆どで、自分もそう書いたのだけど、それよりも実感としては「自分の痛い所を突かれて、感情的になって怒る」ことが今思う弱さかなと思う。

親を見ててそうだし、自分もまたそうである。

自分の欠点を変えるにしても、引き受けるにしても、とても難しいことだと思う。

 

後半の人間関係作り、交流の話に関しては、マインドマップを作っていろいろ考えを書いてみると・・・

基本的には一人でいたい。

他人に気を遣うから。

何故か?

失礼があってはならない。できれば良く思われたい。

何故か?

嫌われたくない、傷つきたくない、つけたくないというのがある。

 

関係作りは難しい。

何故か?

話題が無い。

会話が続かない。

共通点を見つけられるか?

沈黙を恐れる。

他人の話題に興味が持てなかったとして、どこまで拾えてあげられるか?

そもそもいきなり話しかけるのは・・・。

おおよそこんな考えが出てきて、「どこまでも自分本位だなぁ・・・」と自己嫌悪した。

それにこれって人間関係の入り口じゃないですか。友達との関係、恋人との関係、家族との関係、職場での関係などなど、具体的な関係性の話が一切出ない。

そりゃあ恋人も友達も無く、家族以外との関係性が無いのだから仕方がない。

こういうところに自分の未熟さを見るようで耐え難い・・・。

 

「友達とだったらスムーズに会話できる」という利用者も何人かいて、ああ、真っ当に生きていたら友達の一人や二人いるもんなのかなぁと、なんか切なくなってきた一日だった。

 

 

アタリ

上手い絵を見るより、下手な絵を見る方が安心感があるでしょ。失敗からの方が学べることは多いはず。何かの参考になれば・・・。

 

「アタリ」

 

それはどの教則本にも載っている基本中の基本中の基本の、絵の土台になる、物凄く重要なやつである。

でもこれが本当に嫌だった。だって何度やっても上手く描けない。ズレる。結局修正に修正を重ねてアタリの意味が無くなって、ストレスだったから。

とはいえ描き続けるうちに、アタリが取れないと比率や大きさを決めることが困難であることに気が付く。それどころか例えば人を描くなら、ポーズの流れさえ掴むことが困難であると最近思い始めてきた。

簡単な形に置き換えられる感覚。これがとても重要。

やはり輪郭線を追うだけでは描ききれないものがある!

YouTubeでプロが解説している動画や、改めて所持している教則本なんかを読んで、まずはアタリの練習をしている。アタリと言えど、その感覚を掴むのには結構時間が掛かるのだろう・・・。掛かりますよね!?

 

最近写実的だけではなく、漫画、アニメ的な表現に興味が出てきたので、ニュースサイトに載っていた絵の模写から経験を積んでいこう。

結果がこれ。上下端二つの絵が模写。真ん中左がモデルの簡単なデッサン。右は今ある知識と感覚で描いた実験的な絵。右下はアタリの練習。

 

いずれも本を参考に立方体と十字線でアタリをとって描いたら、おやおや!?描きやすい!?

あれ・・・比率が、なんか大きさが・・・とかいう「あれ」がないのである。

まだ発展途上だから細かいバランス感覚や「人相が変わる問題」は解決できていないが「輪郭線を苦しみながら追う」からなんだかプラモデルを組み立てる感覚になってきて、ちょっと面白くなってきたような。やっぱり真面目にアタリの練習をしておくべきだったなぁ・・・。

それにしても髪を描くのが非常に苦手で、どうしたらいいのかよくわからない。

 

絵を描くのが苦手だと思っている人は、本や動画を参考にアタリを取る練習をしてみてはいかがでしょうか。

そしてアタリと言えども、その感覚が身につくまでは随分掛かると体感的に思う。今日できなければ明日。明日できなければ明後日と、焦らずに継続していきましょう。

 

アタリは一日にしてならず!

 

ついでにギターもいい加減もたつかずに演奏できるようになりたい・・・。

他人・・・ではなく、遥かに自分の問題

もう何度も書いてきたけど、休日に大型量販店なんかに行くと家族連れが多いわけですよ。

単純に人混みが嫌というのもあるし、ああいう価値観というか、世界というか、あんな風にはなれないなぁ、なりたいわけでもないなぁと思いつつ、あれが年相応の立場というか責任感というか、目指すべきというか「成熟した人間のあるべき姿」という感じがして、そんなことを考えていたら柱に設置してあった鏡に映る自分の姿が酷く未熟で子供じみて見えて、すごく嫌な気分になった。

 

それが嫌なら努力して成長しなければならないし、そうでなければ「大したことのない自分を引き受けていく」のかのどちらかなんですよね。

無能な上に自己愛の強い自分はどちらも難しい。他人が!他人が!と言いますが、遥かに自分の問題なんですよ。他人はあくまでも相対的なもの。でもそこに囚われる。これが生きづらさの正体なのか?

 

他人というのは鏡のようだと思うことがあって、愛想良く接すれば相手もそうなるだろうし、無愛想に接すれば同じことでしょう。

自分がどんな存在なのか、相対化して映す鏡が他人なんだと思います。

だから、同じような人の間で群れる。立場や価値観が違うとストレスであるばかりか、辛くなってくる。集団を否定しては自分というものがわからなくなる。狂ってくる。

そうなったら属する集団を見つけるなり、変えていった方がいいでしょう。難しいけどね。

自分は家にいるのが、家族の一員として接する、というかそういう自分を引き受けていくのが嫌で若者サポートステーションで作れないかと考えています。

家族でも、息子でも、兄でもないし、大体似たような属性の人が集まりますから、気楽なものです。

 

 

 

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